トッピクス


                       日本伝統食品研究会近畿支部部会参考資料

1.豊下製菓株式会社の成り立ち(省略)
2.屋号の謂われ等(省略)
3.あめ・飴・キャンデ−・有平糖(あめの話)

 日本に昔からある「あめ」は、一休さんのとんち話にでてくる和尚さんの水飴や、むかし話「龍の子太郎」で太郎が母親の乳のかわりになめた、龍の目玉のようなあめ玉です。
独特の風味はありますが、砂糖を使っていませんから甘味の点ではいまひとつです。
 さて、日本書紀の神武紀に「飴」が文字として初めて現れます。舎人親王が日本書紀を編纂したのが8世紀のはじめですから、神武紀の真偽のほどは別として、この頃には「飴」と言う食べ物が間違いなく存在していたことになります。そのくだりには「酒」と「飴」づくりが合わせて書かれているのですが、書かれていることがそのまま本当ならバイオテクノロジ−の先駆けのような高等技術です。
 砂糖は孝謙天皇の時代に鑑真和尚が唐から持ち来ったという記録があります。鎌倉時代の書物には砂糖とともに飴糖(イトウ。米飴のことか)、蜜糖(蜂蜜か)の語もみられます。
時代は前後しますが、「枕草子」には『あてなるもの・・・けずり氷に甘葛(アマズラ)を入れたるもの』とあるくらいですから、砂糖の甘味は当時の貴族たちにさえ縁のないものだったんです。甘葛は甘い汁を出す植物で、その汁を煮詰めた当時の甘味料です。
また、狂言の「附子(ブス)」には砂糖をなめる場面があります。室町時代、砂糖は宋との貿易で得られた貴重品だったので、格好の題材となったのでしょう。
 大航海時代に入ると、いろいろな国のいろいろなモノが海を渡って行き来するようになります。日本にも鉄砲の伝来以降、コンフェイト(金平糖)やカステラなど今でもおなじみの南蛮菓子といっしょに、日本のキャンデ−のル−ツ、アルフェロア(有平糖:ネジリアメの意)も伝わります。有平糖はこの頃流行っていた「茶の湯」の干菓子に取り込まれ、今では立派な和菓子です。作り方は、砂糖を煮とかして丹念にアクを取り、酢を少し加えて煮詰めます。適当に冷えたら、色を付け形を作ります。「江戸商賣絵字引」では『砂糖を極製して色を付け合わせた物』とあります。フランス菓子のあめ細工と基本的には同じ物です。
 江戸時代も元禄や享保年間には、砂糖も少しは庶民の手の届く物となり、古来よりの飴にも砂糖を加えるようになります。このように、東洋の飴とインドからヨ−ロッパを経てやって来たキャンデ−が日本の風土に培われて生まれたものが、皆さんがいま食べている「あめ」と言うことになります。
4.日本のお菓子の始まり

 時は八代垂仁天皇のころ、天皇の命を請けたタジマモリ(田道間守)は不老不死の薬を求めて海を渡り、常世の国に向かいました。タジマモリは不老不死の薬を始め、いろいろな珍しいものを持って帰ったのですが、残念なことに天皇はすでに亡くなっていたのです。そして自分も悲しみの余り天皇の陵(みささぎ)の前で死んでしまいました。この時に持ち帰った不老不死の薬が「非時香果(ときじくのかぐのこのみ)」、すなわち「橘」だったと言われているのですが、菓子屋はこの「橘」を菓子の始めとし、タジマモリを菓祖神として崇めています。現在、このタジマモリは熊野九十九王子のひとつ橘本神社に祀られています。
 我が国では、古くから木の実や果実を菓子と呼んでいましたので、「橘」すなわちミカンの原種が菓子だと言っても間違いではないのです。この橘や柿、梨(アリの実)など、水分の多い果物を水菓子(みずくだもの)と言い、果物屋のことを水菓子屋(みずがしや)と言っていました。そして栗や胡桃や栢などの木の実は、茶会の菓子としても一般的に用いられていました。これらに対し、遣唐使が唐から持ち帰った唐菓子(からくだもの)があります。これはいろいろな形の揚げ餅だと思ってください。唐から伝わった果物という意味です。
 安土桃山時代には、皆さん御存知の「カステラ」「金平糖」「有平糖」などの「南蛮菓子」が伝わりました。この頃から、一部の日本人は砂糖の甘味を知りだしたのです。このような時代背景の上に、現在我々が目にする様々なお菓子があるのです。
5.大阪の菓子について
 食べ物全般では、まだその名残を残していますが、菓子の分野では非常に少なくなりました。廃れた殆どのものが、需要の枡が小さい割に高度な技術を必要とし、手間のかかる品物です。例を挙げれば、盆菓子に用いる鳳瑞があります。泡雪羹でするように寒天を泡立て、澱粉を均したトロ箱に鶴亀や野菜の形の押し型をして流し込み、ホイロを取り、着色したものです。お伊勢さんなどで目にする生姜板などの金華糖の一種で水金華というのもありました。落雁に使う木型を水に漬けて充分に湿らせ、これに過飽和の砂糖液を扱き入れ、簀の子に打ち出して乾燥させ着色したものです。縁起物や結婚の引き出物に使われていました。飴では組飴の一種である戎っさんの福飴や、艶物と呼ばれる光沢のある飴も見られなくなりました。
6.大阪の伝統食
 大阪の伝統的な食は京都や奈良などと関連しているものの、微妙に違った独特なものがあります。別途「今も伝わる大阪のごはんとおかず」(宮本智恵子編著、創元社)の抜粋を添えて置きます。
 7.食材の説明
 @ 天王寺蕪:昭和初期まで天王寺一帯で栽培されていました。干し蕪は冷え性の民間薬としても使われていました。詳しくは別紙を参照。
料理:蕪(実)の炊いたん、浅漬け、干し蕪膾、一夜漬け。
 A 半助:関西風、鰻の蒲焼きの頭のことです。炭火焼きのために芯まで程良く火が通り、生臭さがありません。材料はいづもやさん(創業350年)に提供して戴きました。本店は以前、心斎橋北詰にありましたが、今は東心斎橋1-13-5に移転しています。阪神百貨店と難波高島屋にも出店しています。千日前のいづもやとは別です。
料理:いづもや風半助豆腐。
 B 雑煮味噌:文政6年(1823)創業の名店、大源の雑煮味噌です。大阪では元旦は白味噌仕立て、餅は生の丸餅、焼き豆腐・小芋・細手の雑煮大根を入れます。2日は水菜のお澄ましの焼き雑煮です。
料理:大阪の味噌雑煮。
 C あらめ:大阪は言葉をはしょって、語尾をのばすことを良くします。あらめは「め〜」となります。大阪の商家の料理は、月々の決まりと旬の物の組み合わせで決まります。一日十五日は赤御飯とお頭付き、八の付く日は「め〜の炊いたん」と言った具合です。
料理:め〜とお揚げさんの炊いたん、白菜とざるぼの炊いたん。
 D その他:かやく御飯、毛馬胡瓜の奈良漬け、岸澤屋(きっさわや)の黒豆、お造り。