十八屋弥兵衛のひとりごと vol.5

-なにわの伝統野菜 その弐-

飴のうんちくや日記の紹介
なにわの伝統野菜
はじめに

 

 古典落語に「七度狐」というのがある。お伊勢参りを題材にした愉快な噺である。伊勢参りを思い立った二人連れが、蛸竹(たこたけ)の辻(伊勢街道の起点、東横堀に架かる安堂寺橋の東詰)を立ち、腹ごしらえに入った深江の二軒茶屋(菅笠で有名な菅村にあった。御陰参りをする人はここで菅笠を求め、柄杓を一本だけ持って伊勢を目指した)で、店の主の目を盗んで木の芽和えを擂り鉢ごと失敬する。空になった鉢を放ったところ運悪く、悪さをされると七度の祟りを為すという「七度狐」に当たる。御厨では麦畑を河に見せられ、裸になって旅装束を頭に載せて麦畑を渡らされる。さらに先、里を過ぎた辺りでは突然日暮れとなり、破れ寺に宿を乞うたのは良いが、因業婆の通夜をさせられたり、土饅頭の雑炊を食べさされたりする。もちろんみんな「七度狐」の仕業である。長い枕が落語の本題の説明になってしまった。
 つい百年ほど前までの大阪は、北組・南組・天満組と呼ばれる三郷が市街地だった。ごく大雑把に言うならば、上町大地の北端、大阪城を中心に北は今の国道1号線まで、東は上町、西は堀江の外れ、南は千日前通りまで、その周辺は農地だった。ほん周辺部では傷みやすい菜っ葉や葱などの葉物、中心部から離れるにしたがって傷みにくい根物や瓜類、そして果実や芋などの換金性の高い物が作られていた。さきの落語にもある様に、船場の東外れを少し離れれば、そこはもう農地である。深江は菅原、菅笠の産地。季節は麦秋、木の芽も筍も近在で間に合う田舎なのである。これが今の大阪市内中心部から、ほんの一里のところなのだから。ここ数十年、大阪では市街地の拡張が大まかに二度行われている。一度目は第一次世界大戦勃発の影響下での工業地化・住宅地の拡張。二度目は高度成長期の宅地化と、周辺部の一部の工業地化である。現在に至っては、大阪市内の専業農家は数戸。換金性の高い、菊菜などの葉物を中心とした単品種の輪作が主体で、あくまで地場消費用の一部を賄っている。
 なにわの伝統野菜と言うと、だれもがなにわの地で採れた野菜を思うだろう。しかし、なにわはあくまで町場なのである。野菜など採れようはずもない。なにわの伝統野菜とは、正確にはなにわの町場で消費された野菜たちのことなのだ。言い換えれば、その時代時代の町場地周辺で栽培された野菜たちなのである。そんな野菜たちの代表いくつかに登場してもらおう。

野菜の詳細は次回より


十八屋弥兵衛 謹白