十八屋弥兵衛のひとりごと vol.3

-日本のお菓子の始まり-

飴のうんちくや日記の紹介

 時は八代垂仁天皇のころ、天皇の命を請けたタジマモリ(田道間守)は不老不死の薬を求めて海を渡り、常世の国に向かいました。タジマモリは不老不死の薬を始め、いろいろな珍しいものを持って帰ったのですが、残念なことに天皇はすでに亡くなっていたのです。そして自分も悲しみの余り天皇の陵(みささぎ)の前で死んでしまったのです。この時に持ち帰った不老不死の薬が「非時香果(ときじくのかぐのこのみ)」、すなわち「橘」だったと言われているのですが、菓子屋はこの「橘」を菓子の始めとし、タジマモリを菓祖神として崇めているのです。現在、このタジマモリは熊野九十九王子のひとつ橘本神社に祀られています。
 我が国では、古くから木の実や果実を「菓子」と呼んでいましたので、「橘」すなわちミカンの原種が菓子だと言っても間違いではないのです。この橘や柿、梨(アリの実)など、水分の多い果物を「水菓子(みずくだもの)」と言い、果物屋のことを「水菓子屋」と言っていました。そして栗や胡桃や栢などの木の実は、一般的な「茶会」の菓子として用いられていたくらいです。これらに対し、遣唐使が唐から持ち帰った唐菓子があります。これはいろいろな形の揚げ餅だと思ってください。唐から伝わった果物という意味で「からくだもの」と呼ばれました。安土桃山時代には、皆さん御存知の「カステラ」「金平糖」などの「南蛮菓子」が伝わりました。この頃から、一部の日本人は砂糖の甘味を知りだしたのです。
 面白いものでしょう。こんな時代背景の上に、現在我々が目にする様々なお菓子があるのです。


十八屋弥兵衛 謹白